【概 要】《平家物語》中,祗王是一個手無縛雞之力的弱女子,在歷史的浪潮中,以自己堅強的毅力和自主自立的生活方式勇敢的活著。她對自己信念的堅持,不論多少年過去,都讓人津津樂道。本文針對《平家物語》中祗王的形象,進行全面的分析和考察。
【關鍵詞】《平家物語》;祗王;平清盛;白拍子
はじめに
『平家物語』は平安末期、貴族社會から武家社會に移行する歴史の転換期に繰り広げられた史実に基づいた物語である。物語を述べているところ、仏教の「無常観」、「盛者必衰」、「因果観」を一貫、全體的に濃厚な仏教観念を満ちている。
もちろん、その軍記物語の中、戦いの影では常に涙する女性が存在する。その中に、一人の女性が歴史の荒波に翻弄されても、自らの意識で生き方を選んで、この混亂の時代に生き抜けていた。彼女は祇王である。平安時代の有名な白拍子となり、清盛に寵愛されて、人に羨むような暮らしをしている。やがて清盛の寵愛は仏御前に移り、母の刀自、妹の祇女と共に嵯峨往生院へ仏門に入る。彼女の自分の信念を貫く強さは何年も経った今でも多くの人々を魅了したのである。
一、平清盛に対する戀心
平清盛は祇王の踴り姿に惚れていた。そして、祇王をそばにおいただけではなく、「母とぢにもよき屋造つてとらせ、毎月に百石百貫ををくられければ、家內富貴してたのしい事なのめならず」。平清盛の恩情によって、祇王一家全員華やかな生活を送っている。ところが、祇王は清盛公に対して、どうな想いを抱いてのか。
祇王の父は橘次郎時長であり、1156 年に起きた保元の亂といわれる戦で、戦死してしまったのである。清盛は保元の亂の戦で勝ち、政治的地位を高めていた。そう考えば清盛は祇王の父を死に至る張本人であることになるでしょうか。しかし、祇王は毎日清盛のために、美しく踴っていた。彼女は清盛を憎んでいないのか、それとも、家族のために地元のために仕方なくやってたのでしょうか。
では、清盛は仏御前に惚れて、祇王を追い出す時のことを見てみましょう。祇王はそのことについて意外だと思っていなかったけど、さすがに三回もお使いの者を通じて出てもらうなんて驚いたのである。
一樹のかげにやどりあひ、おなじ流れをむすぶだに、別はかなしきならひぞかし。まして此三とせが間住なれし所なれば、名殘も惜しう悲しくて、甲斐なき淚ぞこぼれける。
一本の木下の陰で宿を取り、同じ川の流れをすぐって飲むというはかない関係でさえも別れるのは悲しい、ましてこの三年間ずっと住んで慣れてる場所。祇王はとても悲しくて泣き沈んでいた。この文だけから見れば、祇王は清盛との別れで泣くのではない、その住み慣れた場所を離れるのを悲しんでいるのでしょう。しかし、彼女はこの場所を出る時、最後に泣き泣きにこういう歌を書き付けたのであった。
もえ出るもかるるもおなじ野辺の草 いづれか秋にあはではつべき
ここの「萌え出る」は仏御前になぞらえ、「枯るる」は失意の祇王自身になぞらえている。また、「秋に」は「飽き」に掛けられ、「あはで」は會わずにと泡のようにの2つの意味に掛けている。若葉でも枯れ草でも、一時栄華の差はあるが、いずれ凋落の秋に會わぬわけにはいかないでしょう。その一句は千変萬化の無常の世界を詠んでいるが、清盛に対する愚癡でも見えるのだろう。三年の付き添ってる時間は清盛にとってなんの未練もなく捨てられることは祇王をきずついたのではないでしょうか。
そして、翌年清盛は仏御前を喜ばせるために、祇王を招いたが、返事がなかった。母親の問い詰めるに対し、祇王がこうこたえたのである。
縦都をいださるるとも、歎べき道にあらず。たとひ命をめさるるとも、惜かるべき又我身かは。一度うき物に思はれ參らせて、二たびおもてをむかふべきにもあらず
たとえ都を追い出されても命を取らされても、もう二度と清盛にあわないと決めていた。祇王が清盛に抱く想いはこの一言ではっきりさせられるのじゃないかと。祇王は清盛の誘いにスカとしたのは彼女自身のプライドが高くて高潔な性格であるが、それも清盛に対する戀心のあらわれでしょうか。憎むほど愛しているから、なかなか心から振り飛ばされないだらう。それで、會うか會わないかとまどっていたのである。もし祇王はこの世に虛しさを感じて清盛に斷念したなら、もう死ぬのも怖くない彼女は躊躇なく斷られるはずだった。だけど、それはできなかった。未練があったからでしょう、もう一度清盛に會いたかった気持ちがあったから。たくましくて獨立した女性の印象が強い祇王は、案外乙女のところがあるのじゃないでしょか。
二、仏御前に対する同情
仏御前は祇王の全てを奪われた。愛する男、栄華の暮らし、人々の羨望、全部祇王が手に入れたものだったが、仏御前が現れて、何もかも変わったのである。しかし、そもそもそのきっかけは祇王の優しさから生まれたものである。仏御前に會おうとしない清盛に祇王はこう言いた。
あそびものの推參はつねのならひでこそさぶらへ。其上年も未だ幼ふ候ふなるが、適々思い立って參り候ふを、すげなふ仰られてかへさせ給はん事こそ不便なれ。いかばかりはづかしう、片腹痛くも候ふらむ。わがたてしみちなれば、人の上ともおぼえず。
祇王は仏御前に同情して3つの原因をあげて、清盛に會うことを推した。でも、それはただの同情ではないかっていう反論があったそうだ。もう一つの説があった。それは、祇王はとてもプライとが高くて自分に自信がある女性であるので、幼い仏御前を相手にしていない。仏なんかの舞を見たって清盛の自分への寵愛が揺らぐはずはないという絶対の自信があったからでしょう。その言葉は「対面くらいしてあげたら…」というのは彼女の余裕の表れである。
では、再び祇王が屋敷を出る時書いた歌を見てみましょう。それは清盛への愚癡の手紙であったが、仏御前へのメッセージでも見えるでしょう。仏御前は若葉で、自分は枯れ草。たとえ今の清盛は仏御前を寵愛していたが、何れ飽きる時がやってくる、今の私と同じ運命になるでしょう。だから、その前にちゃんと心の備えをしていかないと耐えならないだろう。獨立する強さをもって、男に捨てられてもちゃんと一人で生きられる。こんな時でも祇王も思い遣りがあり、心優しい女性である。だから、舞い上がって自信過剰な考えはないじゃないでしょう。
おわりに
以上の二つの點から見て、祇王は心優しくて、ほかの人より心遣いがあって、同じ経験がある仏御前に同情する気持ちを抱いて、プライドが高い女神のような人である。しかし、その逞しく獨立したキャラクターの下に普通の女の子であることはまちがいないでしょう。好きな男のそばにいたい、その人のために全身全霊盡くしても構わない。そして、捨てられるとその人のことを憎むのである。祇王という女性像を描くとき、女であることを含んで考えないと、その人は完全と言えないだろう。
【參考文獻】
[1]張麗.《平家物語》與《三國演義》中的女性的自我意識[D].上海交通大學,2013.
[2]趙微微.《平家物語》的女性形象[D].福建師范大學,2009.
[3]董雪.『平家物語』から見る日本人の無常観[D].內蒙古大學,2011.