【摘 要】20世紀(jì)80年代末,中國(guó)的一部分知識(shí)分子指出:“1972年的中日聯(lián)合聲明中,中國(guó)政府放棄了對(duì)日索賠權(quán),但民間對(duì)日索賠相關(guān)的問(wèn)題則沒(méi)有說(shuō)明。”在這之后,中國(guó)的戰(zhàn)爭(zhēng)受害者開始了對(duì)日民間索賠。1995年開始,細(xì)菌戰(zhàn),中國(guó)勞工,慰安婦,南京大屠殺,無(wú)差別戰(zhàn)略轟炸等的受害者開始向日本政府和企業(yè)提起索賠訴訟。重慶大轟炸的索賠訴訟就是其中之一。
【關(guān)鍵詞】民間對(duì)日索賠;重慶大轟炸;無(wú)差別戰(zhàn)略轟炸;訴訟
一、中國(guó)の対日民間賠償請(qǐng)求の発展と現(xiàn)狀
1972年の日中共同聲明は「中華人民共和國(guó)政府は、中日両國(guó)國(guó)民の友好のために、日本國(guó)に対する戦爭(zhēng)賠償の請(qǐng)求を放棄することを宣言する」としている。戦爭(zhēng)賠償の処理はすべてすんだと思っている中國(guó)人はたくさんいるが、1987年9月、李固平が全國(guó)人民代表大會(huì)に公開狀を出し、対日賠償請(qǐng)求を要求した。これは中國(guó)の対日民間賠償請(qǐng)求の始めだとされている。
1987-1994年、李固平、童増などは主に全國(guó)人民代表大會(huì)に議案を提出すること、公開狀を出すこと、日本大使館に賠償請(qǐng)求を伝えることなどの方法を通して、賠償請(qǐng)求の問(wèn)題を提出し、賠償を求める道を探してきた。中國(guó)の被害者は、日本の大使館に訴狀を提出すること、日本の國(guó)會(huì)あるいは首相に公開狀を出すこと、日本企業(yè)に賠償請(qǐng)求狀を渡すこと、日本企業(yè)と交渉することなどの方法を通して、日本政府、企業(yè)の謝罪と賠償を求める。しかし、効果はあまりなかったと言える。その原因で、1995年から、中國(guó)被害者は訴訟の手段を選ぶようになった。
1995年、花岡事件の被害者耿諄などの11名は、中國(guó)政府が個(gè)人による賠償請(qǐng)求を「阻止も干渉もしない」と容認(rèn)姿勢(shì)を見せたことから、鹿島に損害賠償を求めて提訴した。鹿島が心から謝罪すること、鹿島が大館と北京に「花岡殉難烈士記念館」を設(shè)立し、後世の教育施設(shè)とすること、受難者に対するしかるべき賠償をすること、という三條件を要求した。1997年、東京地方裁判所は訴追期間の20年を経過(guò)しており、時(shí)効であるとして門前払いにした。2000年11月29日に東京高裁で和解が成立した。
1995年から、細(xì)菌戦、華人労務(wù)者、慰安婦、南京大虐殺、無(wú)差別爆撃などの被害者たちは日本政府、日本企業(yè)に損害賠償を求めて提訴してきた。判決が下された訴訟の中で、李秀英名譽(yù)毀損裁判、夏淑琴名譽(yù)毀損裁判のほかに、中國(guó)の被害者は全部敗訴した。
二、重慶大爆撃の賠償請(qǐng)求訴訟
1、重慶大爆撃。重慶大爆撃の賠償請(qǐng)求訴訟は判決が下さなかった訴訟の一つである。この訴訟で、「重慶大爆撃」は日本軍の航空部隊(duì)が重慶市(直轄市)と四川省(成都市や楽山市や自貢市などを含む)に加えた爆撃の総稱である。重慶大爆撃第1次訴訟の訴狀によると、成都爆撃を含む重慶大爆撃は、1938年2月から1944年12月までの6年10ヶ月にわたっている。死傷者総數(shù)は10萬(wàn)人を超えているし、また重慶大爆撃で家屋や店舗を失った人は100萬(wàn)人の規(guī)模にのぼる。
2、訴訟経過(guò)。2004年4月7日、重慶市で、原告ら重慶大爆撃の被害者たちは、「重慶大爆撃被害者民間対日賠償請(qǐng)求原告団」を結(jié)成した。2006年10月25日、重慶大爆撃訴訟第1回口頭弁論が行われ、東京地裁103號(hào)法廷で重慶市原告4名が意見を陳述し、弁護(hù)団の三人が訴狀要旨を陳述した。法廷が終了したあと、被害者たちは都心デモ、記者會(huì)見、裁判報(bào)告會(huì)、政府への要請(qǐng)行動(dòng)、院內(nèi)集會(huì)などの行動(dòng)を行った。この訴訟は、2006年10月に提訴(第1次)され、追加提訴が第2次から第4次まで行われている。原告らの爆撃被害地は中央直轄市の重慶市のほか、四川省の楽山市·成都市·自貢市·松潘県などで、原告數(shù)も全體で188名に及んでいる。裁判は2012年12月17日で24回目になる。2014年、三分の一の原告が法廷で意見陳述をした後、一審判決が下される。
3、重慶大爆撃の違法。原告らの訴訟代理人は土屋公獻(xiàn)をはじめとする弁護(hù)士12である。彼らは「航空部隊(duì)による空爆に関しては、爆撃対象と投下爆弾の両面から、國(guó)際法違反の有無(wú)が検討されなければならない。」と法廷で陳述した。成都爆撃を含む重慶大爆撃が開始された1930年代末の當(dāng)時(shí)、空爆規(guī)制に関する一般的な國(guó)際法規(guī)は未だ制定されていなかったが、すでに「空戦に関する規(guī)則案」が策定され、同法規(guī)案が定める軍事目標(biāo)主義の原則を中心とする空爆規(guī)制に関する確立された國(guó)際慣習(xí)法が成立していた。i
「空戦に関する規(guī)則案」の第22條、「普通人民を威嚇し、軍事的性質(zhì)を有しない私有財(cái)産を破壊し若しくはき損し、又は非戦闘員を損傷することを目的とする空中爆撃は、禁止する。」によると、「非戦闘員を威嚇し、損傷する」ことを目的とする空爆は違法だと考えることができる。同じように、軍事的目標(biāo)に対する空爆であっても、それが非戦闘員に対する無(wú)差別爆撃になる場(chǎng)合は違法である(24條)。
三、結(jié)語(yǔ)
重慶大爆撃が無(wú)差別爆撃で、國(guó)際法に違反することは明らかである。しかし、1995年から、中國(guó)の戦爭(zhēng)被害者たちの対日賠償請(qǐng)求訴訟は二件のほかに全部敗訴した。日本の裁判所がこのような判決を下す理由は主に國(guó)家無(wú)答責(zé)ii、時(shí)効iii、除斥期間iv、個(gè)人が賠償を請(qǐng)求できないこと、などであるv。重慶大爆撃の賠償請(qǐng)求訴訟の判決はどうなるか、今は言えないが、この訴訟は、「原告らの眼差しから、「戦略爆撃」という軍事戦略とその思想を裁き、その非人間性と殘虐さを告発する裁判である」vi、から、意義が限りなく大きいと言える。
注釋:
i重慶大爆撃第1次訴訟の訴狀(2006年)P79
ii 國(guó)家無(wú)答責(zé)の法理(こっかむとうせきのほうり)とは、國(guó)家無(wú)答責(zé)の原理ともいわれ、大日本帝國(guó)憲法のもとで、官吏は天皇に対してのみ責(zé)任を負(fù)い、公権力の行使に當(dāng)たる行為によって市民に損害を加えても國(guó)家は損害賠償責(zé)任を負(fù)わないとする法理をいう。
iii 民法における時(shí)効とは、ある事実狀態(tài)が一定の期間(時(shí)効期間)継続したことを法律要件として、その事実狀態(tài)に合わせて権利ないし法律関係の得喪変更を生じさせる制度をいう。
iv 除斥期間とは、法律関係を速やかに確定させるため、一定期間の経過(guò)によって権利を消滅させる制度。
v 高凡夫:追索正義與尊嚴(yán)的艱難訴求――上海師範(fàn)大學(xué)博士論文(2006年)P17
vi重慶大爆撃第2次訴訟の訴狀(2008年)P6
【參考文獻(xiàn)】
[1]土屋公獻(xiàn).重慶大爆撃第1次訴訟の訴狀[Z].2006.
[2]土屋公獻(xiàn).重慶大爆撃第2次訴訟の訴狀[Z].2008.
[3]高凡夫.追逐正義與尊厳的艱難訴求——中國(guó)民間対日索賠研究[D].上海師範(fàn)大學(xué),2006.
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[6]楊小鳳.淺析重慶大轟炸受害者民間対日索賠的國(guó)際法依據(jù)[J].経営管理者,2010(1).