雛祭は遠(yuǎn)く奈良時代に中國から伝來した風(fēng)習(xí)で、日本では古來の農(nóng)耕儀禮として慣習(xí)化され、次第に獨自の雛祭の行事を形成していった。雛祭の発祥地である中國には現(xiàn)在、このような古代からの雛祭の面影がまったく見られない。言い換えれば、ほとんどの中國人が自分の國の雛祭の伝統(tǒng)文化を知らないのが実情である。だが、この雛祭が奈良時代に日本に伝來してきた後、現(xiàn)代の日本の都市においては、日本の伝統(tǒng)文化の一つとして、ますます発展する様子を見せている。
真壁町は、茨城県桜川市の中では最も南側(cè)に位置し、筑波·加波連峰の西側(cè)に開けた総面積約63.40 km2、人口約2萬人の町である。平成15年に始まった真壁町の雛祭は、江戸時代や明治の貴重な雛人形、平成の新しい人形、手作り雛が見せ蔵や商店などに飾られ、多くの観光客でにぎわう。城下町の面影を殘す真壁町の町並を多くの人に知ってもらおうと、同地域を訪れる人をもてなしたいと住民自ら開かれたものである。玄関先で観光客などと雛人形の話で盛り上がり、お茶や甘酒を振る舞う姿もみられるほかの祭とは全く違う風(fēng)景である。お雛様の前で祭主催者と観光客が一體となって楽しめる祭りである。更に、そこには現(xiàn)代日本社會に失われつつある風(fēng)景や風(fēng)俗がみられる。真壁の雛祭は、今年13年目で人形を飾る家が150軒に上る等、當(dāng)町の住民たちの努力により、當(dāng)初の規(guī)模より拡大され観光客も益々多くなり更に盛大になっている。
一、グルッぺ「和の風(fēng)」の成立と「真壁の雛祭」の開催
真壁の雛祭は、2003年、地區(qū)內(nèi)の民間団體である自主グループ「和の風(fēng)」(「お雛様を通して和の文化·和む心·人の和が広がってほしい」という願い、その思いに“和の風(fēng)”と名前を付けることにしたと言われている。―2002年12月)が発起人となり、住民有志の協(xié)力を得て平成15年2月に始まった。開催期間を毎年2月4日より3月3日までとし、平成19年第5回目を終了した。この民間団體は実行委員會などの組織を作らずに、自由に參加することにより、各自がそれぞれの思考をこらしながら「もてなしの心」をもって來訪者に接することを主旨としている。開始の契機は、真壁地區(qū)を訪れる観光客が増加しつつあるなか、とくに冬季に來訪する観光客に対して休憩所を設(shè)け、少しでも観光客の寒さを防ごうというもてなしの心であった。その際、真壁町內(nèi)の舊家で発見された江戸期の古い雛人形や平成の新雛を展示することにより、観光客の心を少しでも癒したいという思いからこれを活用したものである。このイベントは、町の補助金や他の団體からの補助などの援助を一切受けることをせず実施してきた。第一回目は、23軒の各店舗や各家で大體3,000円ぐらいの協(xié)賛金で雛祭をやってきた?,F(xiàn)在、真壁の雛まつりは、真壁地區(qū)における2,3月の一大イベントとして定著している。
二、真壁の雛祭の発展
2003年、43軒の協(xié)力により、江戸時代から平成までの雛人形を各店舗や各家、休憩所に展示したところ、観光客よりかなりの好評を得た。第一回目は一日數(shù)十人しか訪れなかった真壁町であったが、マスコミの宣伝と観光客等の口コミなどで、しだいにその數(shù)も増え、最終日は2000人を數(shù)えるまでになってきた。そこで、翌年からは雛人形だけではなく、創(chuàng)作雛(和菓子雛、花雛、石雛など)の展示も実施したのである。その結(jié)果、雛祭の全體の規(guī)模が著しく拡大することとなり、マスコミや観光客からの注目がいっそう高まるようになり、2005年になると、雛人形の展示軒數(shù)は115軒に増加し、雛祭開催時の観光客數(shù)は10萬人を超え、2015年になると更に雛人形展示件數(shù)は、第1回目の43軒から150軒に増加し、來訪者數(shù)においても、當(dāng)初の約1萬4千人から10萬人強と増加した。
三、真壁の雛祭の特徴
真壁の雛祭は平成15年2月、真壁地區(qū)內(nèi)の民間団體である自主グループ「和の風(fēng)」が発起人となり、住民有志の協(xié)力を得て、寒い中で真壁の町並を散策に來てくれた人への『もてなしの心』から始まったことを原點として、第14回目を迎えようとしている。この『もてなしの心』から始まった真壁の雛祭は朝日新聞、読売新聞、茨城新聞やNHK等のマスコミにも大幅に取り上げられるようになり、TVでも放映されるようになった。これ等の影響もあり真壁町は一躍注目され、観光客が増加する一方、真壁を訪れた観光客等の口コミ等による波及効果も手伝い、更に盛大になり、茨城県內(nèi)では最大規(guī)模の雛祭になったのである。
民族學(xué)者である柳田國男(1875~1962)氏は「祭」と「祭禮」を區(qū)別し、祭禮は祭に含まれると指摘している。柳田國男氏は祭禮とは「ミル」側(cè)と「スル」側(cè)、すなわち祭りの執(zhí)行者や関係者以外の見物人の存在が、古來からのマツリを祭禮とする要因になったと述べる。ここでは真壁の雛祭を「スル」側(cè)からその特徴を見出すことにする。
『もてなし』の心で始まった雛祭
各家、各店舗が真壁の雛祭に參加した契機は、寒い時期真壁の町並みを散策する観光客をあたたかくもてなそうという『もてなし』の心であった。
雛祭の開催期間中、観光客の不便を解消するため、自主的にトイレの無料提供や雛祭に伴ったボランティア達(dá)の町並み案內(nèi)の活動、數(shù)回にかけて行った甘酒やコーヒーサービス、また、毎年2月4日は午前11時から壽司屋の「壽司兼」で行われる真壁商工會特産品委員會で発案した「ひなすいとん」、「みかげ石すいとん」など、計300食のすいとん試食會などは観光客を楽しませている。
こうした『もてなし』の心からスタートした契機が、真壁の雛祭の発展につながっていると言えるだろう。
実行委員會を作らず、補助金を受けないで開催
住民が発案し運営するという試みで開催された真壁の雛祭は、當(dāng)初各家にある雛人形を道路から見えるところに飾るという簡単なものであった。
第一回目の平成15年は、観光客數(shù)14,000人余り、展示軒數(shù)43軒だったものが、「おもてなしが第一、商売はその次」という姿勢が、新聞などマスコミに好意的に取り上げられたことから、第二回目の平成16年には、観光客數(shù)50,000人、展示軒數(shù)も93軒に増え、2015年の第13回目は観光客數(shù)100,000人強、展示件數(shù)150軒に増えてきた。この増加現(xiàn)象については大體次のことが考えられると思う。
第一に、雛祭を始める際、雛人形を飾ってくれた家が自由にできるよう、一軒一軒が主催者であるという形を作ったからであり、発起人の間で実行委員會を設(shè)置するのは止めようと取り決めをしたことである。これには、実行委員會等を作ると、各家の個性が生かせないばかりか、強制力が出てしまい、飾っている人の楽しさが消えてしまうという遠(yuǎn)慮があったからである。
第二に、行政からのしばりを無くしたいということから、行政からの補助金は受けないと決め、最初の二年間は賛同する人に上限を決め賛助金をいただき運営したことである。従って、ポスターや散策マップは手作りで、広報宣伝費等に一切経費をかけられなかったのであるが、これが逆に素樸さや手作り感が好評を得て、マスコミにも好意的に取り上げられた。また、來訪者からは地元の人達(dá)との交流が楽しいという理由で口コミによる広がりから、更に観光客が増えてきた。
第三に、三年目からは賛助金も無くし、絵葉書を作りその収益で運営費を賄おうという試みを始めた。一方観光客の増加により発起人だけでは運営をコントロールできなくなってしまったことから、開催支援會という応援団組織を立ち上げたことである。
開催支援會は、雛人形を展示している家では、それだけで精一杯であるため、ポスターや散策マップ、ホームページの作成、交通止めの手配や駐車場の整理といった裏方の仕事を引き受けた。しかし、これを?qū)g施する際には最低限のルールは必要ということで、法令で禁止されていることの文書の再確認(rèn)や、開催期間が一か月と長いことからも、疲れたら無理せず休むといった文書を流している。
また、三回目の雛祭からは予想以上の人出に、展示した方から忙しすぎてあまりもてなしができなくて殘念だったと言う話もあり、住民の意識も観光客との交流を楽しむということに重きを置いていることが感じられ、「歓交地」を目指した素樸な雛祭だったのではないかとも言えるだろう。
真壁の雛祭は人と人との「歓交」が提唱され、住民の「おもてなしの心」とその具現(xiàn)化によって実現(xiàn)されてきた。また、観光客の急増が真壁町に経済的効果をもたらすなど、地域活性化が急速になされた。今後さらなる地域活性化を意図するうえでは、各民間団體、住民それぞれの間での意思疎通や交流を?qū)g現(xiàn)させ、急増した観光客を受け入れる體制の整備や、観光客の増加が一時的なブームに終わることのないよう、今後の真壁に対しては、より観光価値を高めるため、柔軟な発想と目標(biāo)設(shè)定が望まれよう。そのためには雛祭の開催からまだ13年と歴史が新しいことや、真壁町の規(guī)模が比較的小規(guī)模であることなどを活かした、明確な取り組みが必要であろう。