はじめに
見出せそうもない「いい加減」という言葉の三つの意味の間には実は見えざる糸で結(jié)ばれている。本文は主に「いい加減」を日本人の自然観に置き換え、三つの意味と自然の関係およびお互いの関連を考える。
キーワード: いい加減;自然;自然主義
1.問題提起
辭書を引いてみると、「いい加減」という言葉は三つの意味が記されている。一つ目はよい程あい、適當(dāng)だという意味である。二つ目は條理を盡くさぬこと、徹底せぬこと、でたらめ、いいくらいという意味である。三つ目は(副詞的に用いて)相當(dāng)、だいぶん、かなりの意味である。一見してこの三つの意味の間には何の関連が見出そうもない。実は本當(dāng)にそうではない。
2.問題解決
一見して「いい加減」の三つの意味の間に何の関連も見出せそうにないが、実はその三つの意味はすべてその根を「自然」に持っているのである。したがって、この言葉を日本人の自然観に置き換えてみれば納得が行く。
以下は具體的に日本的「自然」から「いい加減」の三つの意味及び三つの意味の間の関連を考える。
2.1日本的「自然」から「いい加減」の一つ目の意味を考える
いい加減という言葉は字義通りに解すれば、よい加減という意味であり、つまり、適切に調(diào)節(jié)されていることである。その場合の「加減」とはおそらく中國哲學(xué)の根本要素とも言うべき陰陽二気の加減であろう。中國人は宇宙(つまり自然)の根源に「太極」、あるいは「太一」という絶対的実在を想定し、その「太極」「太一」の中に「気」がこもっていると考えた。「気」は働くと二つに分けれ、陰と陽二気が生じる。そして、その陰陽二気の増減で世界が形作られているというわけである。陰が極まれば陽になり、陽が増えつつければ陰に転化する。その陽と陰の狀態(tài)を「消息」[1]と言うが、「消息」
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とは、陰と陽の加減が最もよく釣り合っている狀態(tài)ということを意味したに違いない。自然は様々に変化するが、最終的に陰陽二気の調(diào)和を目指している。即ち、「いい加減」の狀態(tài)に落ち著くものこそ自然なのである。
2.2日本的「自然」から「いい加減」の二つ目の意味を考えてみる
いい加減の第二の意味は第一の意味とまったくニュアンスを異にする意味を持っている。たとえば、「あなたはいい加減人だ」そう言われた日本人の誰もが不快、どころか、腹を立てることだろう。私のどこがいい加減なんですか、と、ムキになって反論する人も多いに違いない。ということは「いい加減」は決して好ましい言葉ではない。それは「いい加減」の第二の意味、つまり、徹底せぬ、でたらめという意味である。それでは、なぜ二つ目の意味はマイナスの意味に転換するのか。それを説明するには日本人の自然主義と自然主義の正體を言及しなければならない。
2.2.1日本人の自然主義から見る
日本の國土は世界でも稀な溫和な気象と美しい自然に恵まれている。もちろん、狹い島國であっても、北と南では気候は異なり、生活の條件もかなり違う。しかし、概して言うなら、これほど優(yōu)しい山河に取り巻かれた風(fēng)土は地球上で例外といってもよい。このような穏やかな自然の中で暮らしつつけてきた日本人は、當(dāng)然自然に親しみ、自然に甘えてきた。確かに自然は災(zāi)害ももたらした。臺風(fēng)、地震、洪水、旱魃こうした天災(zāi)で人々は苦しんできた。しかし、それにしても、この國では、自然が徹底的に人間を痛めつけることはしなかった。一時(shí)的に災(zāi)害をもたらしても、自然はすぐに優(yōu)しく人間を労わり、その打撃から立ち直らせてくれるのである。
だから、日本人は自然を愛したというより、自然を信じてきたというべきだろう。日本的自然主義というのは、まるで幼児が母親に甘えるような日本人の自然に対する甘ったれた心情である。その心情はすべては自然が解決してくれるという信仰にまで達(dá)する。
2.2.2中日両國自然観の相違から見る
中國の老子も荘子も無為自然を説いた。しかし、荘子、荘子の説く無為自然とは、あくまでも人論を強(qiáng)調(diào)した孔子、孟子に対抗して主張された哲學(xué)で
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あり、自然に甘えた心情が生み出した自然信仰ではない。自然は老子、荘子にとっては、その懐に抱かれたといった“母なる自然”のようなイメージではなく、厳然たる原理なのである。その原理によって老子、荘子は人為を冷笑し、拒絶したのである。その意味で老·荘の思想は日本人の無條件な自然信仰と本質(zhì)的に異なるといえる。
2.2.3日本の自然主義の正體から見る
日本人は自然を信じているにもかかわれず、中國人のように無為自然を信仰することではない。即ち、彼らにとってただ自然隨順すればそれでよいと考えたわけではない。たとえば、日本人は「造化に従ひ、造化に帰れ」といっても、人間は造化=自然そのものとは違う。即ち、人間である以上、人間的な努力をせねばならぬ。その努力の果てに造化が快く待ち受けていてくれるのである。つまり、日本人にとって自然とは、いわば、“滑り止め”の役割を果たしているである。“滑り止め”としての自然―それが日本自然主義の正體である。
したがって、なすべきことをなさず、すぐ自然のままに任せておくということはいくら自然に甘え、自然を信じている日本人にとっても決して好ましいことではない。だから、そのような人は「いい加減なやつだ」と判定する。これは日本自然主義から見る「いい加減」の第二のマイナスの意味である。
2.2.4第二の意味と気脈したほかの言葉
第二の意味は「でたらめ」というより、むしろ「なげやり」、或いは、「ちゃらんぽらん」という語彙の意味に近い。この意味における「いい加減」は「どうせ」「よろしく」というあいまいな言葉とも気脈を通じている。「どうせ」「よろしく」も、すべて自然にあるべき狀態(tài)に任せてしまう態(tài)度だからである。そして、こうしたの日本語は最終的に自然に任せておけばどうにかなるという日本人の楽天的な人生態(tài)度を正直に語っている。
2.3日本的「自然」から「いい加減」の三つ目の意味を考える
「いい加減待たされた」というふうに「かなり」「だいぶ」の意味に使われれるのは、人間が考える尺度よりも自然の尺度ほうが一回り大きく、時(shí)間に関して言うなら悠長ことを暗黙に表現(xiàn)しているのである。
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3.1この三つの意味の間の糸
この三つの意味はやはり見えざる糸で結(jié)ばれている。それはともに日本人の自然観の正直な告白である、つまりそのすべての根を「自然」に持っているのである。たとえば、三つの例を出し、分析する。
①A:お湯加減は? B:大変いい加減です。
②いい加減な処置。
③いい加減待たされた。
例①はお湯の狀態(tài)が自然のように程よく調(diào)節(jié)されていることを指す。例②は人為を放擲し、自然に放置されたような処置のことである。例③は自然の運(yùn)行のように待たされたことを指す。以上の例から見れば、「いい加減」という言葉の三つの意味が全部「自然」という糸で結(jié)ばれていることが分かる。
3. 2まとめ
以上の述べたことを纏めると、自然は見方によれば神、自然の摂理のように「程よく調(diào)節(jié)されて」いる。けれども別の観點(diǎn)に立てば、決して人間の思う通 りに働いてくれない。だからとして、自然はまさしく「條理を盡くさぬ」「でたらめ」のように思う。もちろん、自然が「不條理」のように思えるのは、人間の尺度と自然の尺度が違うからである。そして、その尺度のずれが「いい加減」の第三の意味を形づく。
おわりに
この言葉こそ、世界で例外といえるほど優(yōu)しい山河、穏やかな自然に恵まれ
た島國に暮らす日本人獨(dú)特の表現(xiàn)であり、日本人の心性をこの上なく雄弁に語っている興味深い日常語と言える。「いい加減」という言葉の表は「いい加減」の三つの意味である。裏は「いい加減」という言葉からみて、日本人の自然主義、つまり自然への信頼、あまえである。
注釈:
[1]消息:③ 盛衰。消長。 「士たる者は富貴-の事ともに論ずべからず/読本·
雨月 菊花の約」.(三省堂 大辭林)
參考文獻(xiàn):
[1]陳海艷.論老莊自然觀及其影響.[J].思想戰(zhàn)略,2008
[2]袁光婷. 淺析日本人的自然觀.[J] .出版社: 時(shí)代教育,20084
[3]路邈.日本自然觀淺析.[J].北京第二外國語學(xué)院學(xué)報(bào),2004
[4]森本哲郎.『日本語表と裏』[M] .出版社: 新潮社版,1988